2011年11月25日金曜日

「神々の山嶺」(下)

「神々の山嶺」(下)

以下引用
「高度が高くなったり、疲労が濃くなると、生きようという意志が、つい、粗雑になっちまう。そうなったらおしまいだぞ」

ひとつの遠征で、頂上をねらう者は、何千回、何万回、何十万回ーそれ以上もの一歩を踏み出す。場合によっては、そこで踏み出す一歩ずつのことごとくが、己れの意志でコントロールされていなければならない場所もあるのだ。
しかし、24時間、それを何日も何十日も持続できるか。時には、ふっ、と気が抜ける時もある。ある一歩を、つい何気なく連続した動作の続きとして、前に踏み出してしまうことだってあるのだ。その時に、たまたま、その一歩がその登山家の生命を奪うことあるあるのだ。

以上引用終わり。

極限状態でのみできる、自分の内部との対話。非日常だかこそできる自分の弱さとの対話。
そこでしか対話できない自分の一面があるから、ヒトは山に向かうのかもしれない。

下界に帰ってくると実感する日常のありがたさ。そして、しばらくすると失われてしまうそのありがたさ。
そのありがたさを取り戻しに、ヒトは山に向かうのかもしれない。

2011年11月24日木曜日

神々の山嶺(上)


「神々の山嶺」 夢枕獏

以下引用

人は色々な事情を抱えて生きているものだ。
そういう事情に、ひとつずつ、きっちり決着をつけながらでなければ次のことを始められないというなら、人は何も始めることができないのだ。人は誰でも、様々な事情を否応なく引きずりながら、前のことが終わらないまま、次のことに入ってゆくのだ。そうすることによって、風化してゆくものは風化してゆく。風化しきれずに、化石のように、心の中にいつまでも転がっていくものもある。そういうものを抱えていない人間などはいないのだ。

死にゆくために、山にゆくのではない。むしろ、生きるために、生命の証しを掴むためにゆくのだ。その証しとは何かが、ぼくにはうまく語れない。山にいる時、危険な壁に張りついている時に、ぼくはそれを理解しているのに、町に帰ってくると、ぼくはそれを忘れてしまう。考えてみれば、山にゆくというのは、それを思い出すためにゆくようなものだ。

以上引用終了

「風化しきれない化石のようなもの」を抱えながら生きている。忙しい日常の中で、何が風化していくもので、何が風化しきれていないものか、よくわからないまま混乱しながら惰性で毎日を送ってしまう。

山という非日常だからこそ、普段思いもしないこと、考えもしないこと、がフッと湧いてきて、下界に降りた頃には忘れてしまう。

久しぶりにゆっくり小説を読める、空想の世界に浸れるシアワセを噛みしめたい。。。