2010年2月2日火曜日

内面

職業柄、ヒトの不幸に接する、接しざるを得ないことが多くなってしまう。

特に1月は最前線の施設で実習させていただいたため、以前よりそのような場面に遭遇する頻度は多かった。先月は、忙しすぎてよくよく、またくよくよ考える余裕がなかった。

「医師は、ヒトの不幸に接しても冷静を保たなければならない」
「ヒトの不幸に接しても、悲しまなくなったら、この仕事を辞めるべき時だ」

前者は、ある先生から伺った言葉。後者は、ある記事を読んでいてぶつかった言葉だ。
前者であることが理想であろう。後者であることは道理であろう。

近しい方々が最も悲しいのであって、そこに立ちあっているのだから全く悲しいのでもない。

ついもらい泣きしそうで、同胞を失うことで生ずる元来もつ悲しさで、次はそちらに臥すのは自分かもしれないと思う恐ろしさで、悲しいのかもしれない。
悲しむべきは近しい方々で自分は悲しむべき資格はない、悲しいと思うエネルギーをこれからのために向けるべき、悲しみたくないから距離をおくべき、と思って悲しまないのかもしれない。
そんな思いが去来して、分単位秒単位で、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえたり、妙に達観してその場に立っていたりする。


医学はサイエンスとアートだが、ヒトはロゴスとパトスだ。
ヒトがヒトを切ったりして、ヒトがヒトに高濃度精製物質を偉そうに飲ませたりして、医学は進歩した!と偉そうに言えるだろうか?

医学の総体も、一人の人間のもつ内面には、到底及ばないのではないか?