2010年4月6日火曜日

求められる公共心とは??

よく国会議員の「政治と金」のお話や、公務員の裏金・着服などの金銭がらみの話では、必ずといって言いほど新聞の社説に
「我が身をなげうって国のために仕える公僕としての自覚が・・・」
「公共心がなく・・・」
「薄給でも国のために・・」
と言った論調で糾弾される。

今朝の産経新聞にも日医会長選(日本医師会会長選挙)について、
「政党との関係性ばかり追って・・・、診療報酬引き上げばかりに目がくらみ・・・、本来患者中心の医療に戻らないかぎり信頼は・・・」
と言った論調であった。(字句は正確ではないが、このような主旨だった)

まず、上記の問題群について肯定しているわけではなく、ここで触れたいのはそれら問題の取り上げ方について述べたい。と断りを入れてから、以下私見。

個人として公共心溢れるのは文句は言わないが、システムとしては維持機能をもつために働きに見合った報酬ははらうべきだと考える。
ローコスト、ハイリターンを望むのは、持続可能性に乏しい。現場の個人・部署レベルの頑張りにしわ寄せが全てきて、疲労疲弊→崩壊するのは、時間の問題だろう。

どうしてもより有能な方について欲しい仕事(つくことによって、より多くのoutcome改善に寄与するため)は、ある程度のコストを支払うべきだ。
そうしないと経済的に余裕あり+有能な方しか本来、公職につくべきでないことになってしまう。経済的に余裕なし+有能な方にも門戸を広げて、少しでもレベルを維持しようとしないとシステム全体の維持は難しい。

正面だって払われないために、天下りや裏金つくりなどの見えにくい、透明性の低い方法でその分を穴埋めすることになってしまう。

要は、まずそのような論調で書いている方々が、言論の自由やジャーナリズム精神に基づいて実行すべきことだろう。
「公職につくものは公共心をもつべきだ」というのは、程度の差こそあれほぼ正しい。私腹を肥やしたいものは、適性は本来にないべきだから。
皆がほぼ正しいと思うことを言っている≒何も言っていない

どうしてもこのような定型的な論調を聞いていると、うんざりしてくる。
なぜ、透明性の低い金銭問題が起こるのか
なぜ、診療報酬の引き上げを要求するのか(そしてその配分が仕事と成果に応じて公平なのか)
その本質をえぐろうとしないと、何も問題解決にはならない。